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牧祥三先生と『美作地侍戦国史考』

大阪に学会に行った時に、京都にも行ってきました。
醍醐寺の桜を見て、それから元大阪外国語大学学長の牧祥三先生のお宅をご訪問させていただきました。

なぜご訪問することになったかというと、牧先生が書かれた『美作地侍戦国史考』という、うちのご先祖様たちに関する本を、私が県立図書館で偶然発見したからなのでした。
美作地方が、代々ご先祖様たちが住んでいたところで、今でもちっこいお城の跡が残っています。

と言ったらうちがまるですごい名家みたいですが、今は全然そんなことはありません。
昔美作地方でご先祖様たちが栄えた時期があり、後に美作地方が宇喜田家の領地になった時には、宇喜多氏の命を受けて地元を治めていたことがあったそうです。
宇喜多氏失脚とともに帰農して普通の人になりました。

話は去年の秋にさかのぼるのですが、11月におばあちゃんやおばたちと、お墓参りもかねて湯原温泉に泊まりに行きました。
その時に、“おふくの方様御湯治邸跡地”と書かれた記念碑が、温泉街に新しくできていたので、おふくの方様ってダレ?っておばに尋ねたところ、実はご先祖様たちと縁が深い方なんだって教えてくれました。

明治生まれの祖父は、ご先祖供養や、お寺の過去帳や古文書を読んでご先祖様について調べたりにとても熱心だったのですが、私たち孫世代になるとそんなに強い関心はなく、私もそんなに興味を持っていたわけではありませんでした。
ただ、私はいちばん祖父に可愛がってもらったので、子供の頃からいろんな話を聞いていて、いっしょにお佛壇をおがんでいたので、なんとなくご先祖様は身近な存在だったのです。

おばもそんなに関心が強いわけではなかったそうですが、歴史好きな知人が、ご先祖様がのっている本をいろいろ探して持ってきてくれるそうで、それで詳しくなったんだそうです。
何冊か貸してもらって読んで、私もご先祖様たちをとりまく歴史の時代背景や、人間関係がはじめてわかって、とても面白かったです。

おふくの方は、美作地方を治めていた、高田城主三浦貞勝の夫人で、永禄8年(1565年)の毛利家による高田城の落城とともに夫を失い、その後宇喜田直家に迎えられ、秀家を産んだ女性です。
“才色倫ヲ絶スル”と古文書にも記述があるほどの、美しくて賢い女性だったようで、宇喜多直家にも大切にされ、直家が亡くなった後には豊臣秀吉の寵愛を受け、息子の秀家は秀吉の養子となり、異例の出世をとげました。

高田城主の三浦氏に代々仕えていたのがご先祖様たちで、高田城落城後におふくの方と息子の桃壽丸が逃げ延びるのを助けて、備前の宇喜田直家との縁組を取り持ったりと、かなりな忠臣たちだったみたいです。
美作地方が宇喜田家の領地になり、高田城を任された際、おふくの方の湯治のために、地元の人が入るだけだった小さな温泉に湯治場を建て、療養の采配をしたというほのぼのエピソードもあったりします。
それが天正19年(1591年)頃の話だそうで、それが今の湯原温泉の発祥だそうです。

私は日本史に全く興味がなくて、なんとなく程度の知識しかなかったのですが、自分とつながる人たちに関係がある事柄なんだって思うと、急に興味がわいてきました。
調べ始めると、自分の今の生活と重なる不思議な偶然がいろいろあって、なんだか「オーラの泉」っぽい感じです。

そんな時、県立図書館で『美作地侍戦国史考』っていう本を見つけました。
岡山県の本を集めたコーナーにあって、普段はそのあたりの本棚を見ることはないのですが、ほんとに通りすがりに偶然目に入ったのです。

もしかして、この本にもご先祖様たち出てくるかな?って思って開いてみたところ、なんと一冊まるごとご先祖様たちのことが書いてある本でした!
なっなんで?!
すごく驚いて、図書館の机で読んでみました。

最初は著者が、湯原町の五輪墓群を訪れるところからはじまります。
美作地方の有力な武士団であったご先祖様たちが、1300年代の終わり頃から三浦氏の家臣として仕え、久世町の寺畑山城を本拠地としていたこと。
興亡が激しかった三浦氏に仕え、忠誠心の厚い賢臣として、主君のためにがんばっていい働きをしていたこと。
三浦氏滅亡後も、主君の室であったおふくの方の周辺に必ずいて、ずっと母子を守る働きをしていたこと。
美作地方が宇喜多氏の直轄地となってからは、地元の地侍をまとめ、宇喜多氏支配のもとで堅実に領地を治めていたこと。
1600年の関ヶ原の戦い以降、宇喜多氏が失脚してからは美作地方で帰農したこと。
また、一族の中の特徴的な個人に光を当て、その活動を追うことで、その時代をいきいきと描き出しています。
年表や真庭郡のお城の分布図までついていて、うちのご先祖ファン(←いるのか?)なら必見の一冊です。

そして私がいちばん驚いたのは、文章全体から感じる雰囲気が、通常の歴史の本とは全く違っていたからでした。
歴史好きな人が自費出版で作ったものなどは特になのですが、多かれ少なかれ感情的な勝手な解釈がみられ、書いた人の夢や空想がだいぶ入っている混沌としたものが多くて、私には読んでいてあまり爽やかな印象の本がなかったです。
だからあんまり歴史の本って好きじゃなかった。

でもこの本は、そういった変な解釈が一切なく、著者が推測したところにはその旨の記述があるし、本当に膨大な量の資料を細かに分析し、あくまでも「現存する資料と事実」を追って忠実に書き進められています。
その資料の膨大さは、いったいどのくらいの労力と時間を使って取材して集められたのか、想像もつかないほどなのです。
しかもその事実の解釈が、とても温かくて人間的です。
ほとんどの登場人物は特に有名ではなく、ただ現存する資料に名前が出てくるのみなのですが、そういった人たちの人間性を、著者が温かく見つめていることが感じられます。
手紙などの古文書もきちんと訳されていて、しかもその訳は上品かつ人間的です。
相当に教養があって、人柄も優れた方が書かれたのだっていうことが、文章全体から伝わってきます。

文中に与謝野鉄幹・晶子の短歌や、銅版画家ジャック・カロの詩、年代記作者セバスチアン・フランクや、ヨーロッパの中世社会を描いたH.プレティヒャ、J.A.シュンペーターの著書からの文章の引用があったりするので、文学の教養(特にヨーロッパの)が専門的にある方なのかな?でもうちのご先祖様との間にすごいギャップがあるんだけど??と思って読んでいました。

一体これ書いた人って何者?!
って思って、本の最後を見ると、元大阪外国語大学学長で、ドイツ語とドイツ文芸思想史がご専門の牧祥三さんという方が著者でした。
納得。。でもドイツ文学者がなんでこの本書かれたんだろう??
昔おじいちゃんが大阪にも親戚がいるって言ってたけど、ひょっとしてこの方なのかな?
一体どんな方なんだろう?気になる。。って思いました。

さっそく借りて帰って、おばあちゃんやおばにこの本を見せたところ、みんなびっくりでした。
誰もこんな本があることを知らなかったのです。
ただおばあちゃんは、この方からおじいちゃんのところによく電話がかかってきていたので、おそらくこの本を書かれるための取材だったんだろうって言ってました。
おじいちゃんが話していたご先祖様の話が、きちんと本になってるので、この本があってよかったね!ってみんなで話しました。
おじいちゃんがいなくなったら、詳しく把握してる人がいなかったのです。。

おばがこの本を入手したいと、京都の牧先生のところに電話してたずねたところ、自費出版で1987年の出版時に全部配ってしまったので、もう余部は残っていないとのことでした。
でも牧先生は今年100歳で、お元気だって聞いて、みんなで感心したのでした。

インターネットの古書ネットで検索したら、何冊か10000円~15000円で出ていたので、宮崎の古書店からおばが1冊取り寄せました。
インターネットってすごいですね!昔だったら絶対手に入ってないわ。
その後何日か経ってから、おばあちゃんちの本棚で、同じこの本が一冊発見されました!
どうやら出版された際、先生が送ってくださっていたのですが、おじいちゃんはもう小さな文字が読めなくなっていたので、読まれないまましまわれていた模様です。。
その後引越しがあったりしたので、誰もこんな内容の本があることを知らないままになっていた、ということのようでした。
そしてその一冊は、おばあちゃんが私にくれました。わ~い\(^o^)/。

そうこうしているうちに、大阪の学会で関西に行くことになったのです。
いっしょに参加する先生達とは別行動だから、もし牧先生のお宅でいいと言ってくださったら、京都のご自宅まで訪ねて行こうかなって思いつきました。
失礼かな?って思ったのですが、関西に行く機会もそうそうないし、ここは勇気を出して電話してみました。
すごい緊張した。。
ご家族の方が出られたので、事情をお話したところ、快く了解してくださいました。
よかった~!

京都に到着し、醍醐寺の桜を見てからお宅へ向かう際に、バスに乗ったら渋滞に巻き込まれ(観光地なのでバスだと遅かった。)、地下鉄に乗ったら迷い、結局お約束した時間より30分以上も遅れて到着したのです。。
お電話でお話したご家族の方が、地下鉄の駅近くまで迎えにきてくださいました。
その日のご予定をわざわざ変更してくださったそうで、申し訳なくて、本当に恐縮でした。
ありがとうございます(T_T)。。

ご自宅まで案内していただき、著者の牧先生にお会いすることができました!
今年100歳をむかえられて、矍鑠としていらっしゃって、お元気そうです。
やっぱり外語大学の学長を務められるほどの教養がある方は、お年を召しても本当に上品なのですね。。

ご高齢でいらっしゃるので、そんなに長くはお話をお伺いできませんでしたが、『美作地侍戦国史考』のことで訪ねて来たということを、とても喜んでくださっているようでした。
「私が聞きたいのは、あなたのような若い方が、なぜ今ごろこんな本に興味を持ったかということですよ。」
って、何度も何度も、ちょっと照れたようなお顔をなさって、嬉しそうに言っていただいたので、私もそんな風に言ってもらえてとても嬉しかったです。

ご家族がおいしいお茶やコーヒー、お菓子や果物など、ほんとうにたくさんご馳走してくださって、また恐縮でした。。
ありがとうございます!!

牧先生とご家族から、この本を出版した際のお話をお伺いすることができました。
元々歴史家のブルクハルトがお好きだった先生は、ブルクハルトが中世のヨーロッパを描いたような手法で、この本を書こうと思われたのだそうです。
大学を退職後、当時住んでいらっしゃった大阪から岡山まで何度も何度も通い、5年以上の期間をかけて取材して、執筆なさったのだそうです。
美作地方の各地を訪ねるのにお世話になったタクシーの運転手さんとは、いまだに交流があるそうです。
そしてその時の貴重な資料が、まだ書庫いっぱいあるそうです。
この本は私家版として500部出版され、大学や図書館なども含め、あちこちに配られたのだそうです。
岡山大学にも送ってくださったそうですが、先生のところにお礼状がきただけで、歴史の先生は誰も興味を持ってくれなかったそうです。
ただ一人、面白いとすごくほめてくれたのが、先生のご友人の司馬遼太郎さんで、司馬さんがこの本の出版記念パーティーを開いて下さったのだそうです。
先生と司馬さんは、司馬さんが新聞記者をされていた頃からの親しい仲だそうで、『街道をゆく』の文庫版の解説も、先生が書かれています。
きっと作家として、この本がどれほどの情熱を傾けて書かれたものなのかということを、司馬さんは誰よりも理解されていたんじゃないかと思います。
私も、この本についてのお話をお伺いすることができて、すごく嬉しかったです。

訪問中、ご家族の方たちが、ほんとに先生を大事になさってるのだなあってことがすごく伝わってきました。
訪ねていった私にも、とっても親切にしてくださった、素敵なご家族の皆さんでした。

本にサインもいただいて、すっかりごちそうになって、おいとましました。
本当にありがとうございます。。
そして地下鉄の駅まで車で送ってくださったのですが、なんと私がコートをお宅に忘れてきてしまい、また駅まで持ってきていただいてしまうという、ほんとに重ね重ねの失礼で、反省の極みでした。。
いろいろとご迷惑をおかけして申し訳ありません。。

この本のおかげで、私もご先祖様について詳しく知ることができたし、書いてくださったご本人にもお会いすることができました。
やっぱり私がこの本から想像していた以上の、すばらしい方でした。
ほんとに文章は人柄を表すものだなあって思ったのです。
先生の書かれたような文章でなかったら、私はおそらくこんなに興味を持っていないと思います。

この本の中のいろんな人が、自分のところまでつながっていると思うと、なんだか不思議な気がするし、どんな人たちだったのか、ほんとに会ってみたいです。
今はもう名前しかわからない人でも、それぞれみんな、今よりもずっとずっと大変な世の中を、悩んだり楽しんだりしながら、大切な人生を生きたのだろうなって思います。
誠実な生き方をしていたり、堅実に真面目に職務を務めていたり、人柄が感じられる手紙に触れたりすると、時代に左右されない素朴な人間性が感じられて、より身近な存在に思えます。
たまたま私は、ご先祖様たちの人柄の片鱗でも触れることができて、とても幸運でした。
自分だったら、子孫が自分のことを知ろうとしてくれたら嬉しいと思うし。。

両方の親のご先祖様たちや、そこから分かれた分家とかも考えたら、とんでもない数の人たちが自分につながっているのだなあって思います。
そういう人たちがいてくれるおかげで自分がここにいることを考えたら、いいかげんな人生を選ぶことはできないなあって思うのです。
今が大事だから、過去も大事だなあって思う。

後日、先生が執筆の参考になさった、ブルクハルトの著書『イタリア・ルネサンスの文化』を読んでみました。
“特徴的な個人の活動を追うことで、その時代をいきいきと描き出す”といった手法が、この本と共通するところがあるなあって思えたし、何よりも、学問に誠実で、教職を真摯に務めながら、詩作も愛好するといったブルクハルトの人柄が、私にはそのまま先生と重なるように思えました。

「歴史は人生の教師である」
歴史を深く知ることが、人生を生きる深い智慧をあたえることだと考えた、ブルクハルトが好んだ言葉です。
『美作地侍戦国史考』の最後にも、戦国期の人々の生き方についての記述がありますが、その向日性を志向する生き方は、現代の私たちにこそ必要なものかもしれません。

ちょっと要点を抜き書かせていただきました。

総じて戦国期の人びとを眺めたとき、いちばんに印象的なのは、向日性とも言うべき思考にも行動にもあらわれる明るい、屈託のなさである。
戦国の彼らは-王朝人や現代人のように-自己憐憫にたやすく陥って、早々と世捨人になったり、たちまち心のバランスを失ったりしない。
状況のつねに明るい面にまずみずからを向けようとする。
僅かな吉報にも、大きな喜びの反応を見せる。
だが彼らの向日性は単純な無知のそれではない。じぶんたちも含めた人の世の無常、じぶんたちを取り囲む死の危険、これらを充分に認識し、体験した後になお失わない明るさである。
不屈の忍耐心や強固な意思も必要であろう。だが何よりもこの時代ぜんたいに溢れるしぶとい生命意欲が、失敗や苦難の中でも次の成功の機会の到来を信じてやまないのである。
これは生あるものすべてに備わった本性かも知れない。だが戦国期の人びとはことに烈しく勁(つよ)くこの意欲に導かれていたようである。
私が向日性と言うところのものは、このような生命意欲のあらわれである。
                        『美作地侍戦国史考』 おわりに より抜粋


動乱の中にあるからこそ、人間の中には明るく前向きに生きようとする意欲が湧いてくるのでしょう。
生きるということ自体が大変だったら、「生」はかぎりなく美しく、“有り難い”ものです。
ひきこもりや自殺、うつ病やリストカットなどは、生きるということ自体に不安がなくなった、豊かな現代社会が産んだ病だと言えます。
豊かさの中にあると、生きるということの貴重さを感じなくなってしまうというのは、なんだか皮肉です。
戦国時代には、「生」の輝きはまさに、闇の中の光だったでしょう。

先日、祖母や叔母たちと、お墓参りをかねて湯原に行ってきました。
その際に、ご先祖のお城があった山に、何年かぶりにみんなで行ってみました。
おじいちゃんが元気だった頃、みんなでよくお墓参りに行った山の山頂は、何年か前に大雨で山崩れがあったため、全く変わっていました。
でも、ふもとにあるお墓の一部は、かろうじて残っていました。

ほんとに不思議なのですが、今まで住んだこともないのに、湯原周辺の森の空気のにおいは、私にとってなんだか帰ってきたなあって感じがするにおいです。
両親ともに湯原周辺の出身なので、DNAに記憶されてるんでしょうか。。

そしてなんと!この山には子孫も知らなかった埋蔵金伝説があります(笑)。
ネットで発見してびっくりした。
ご先祖様たちは帰農した後ほんとに苦労したらしいので、まずそんな余裕はなかったはずです。
そんなものがほんとにあったら私がもらって、お墓周辺をもうすこしキレイにしてあげたいです。

お墓の周辺は、広い野原になっていて、今までに見たこともないほどたくさんのつくしが生えていました。
あんなにたくさんのつくしを見たのは生まれて初めてです。
私がお墓や山の写真を撮っている間、みんな夢中でつくしをつんでいました。
青空と白い雲、満開の桜の木、うぐいすの声、木々のそよぐ音、うららかな春の日ざし、小さな花も咲いています。
それはほんとうに幸せな瞬間でした。

今思えば、それは「こんな遠いところまで来てくれてありがとう」っていう、ご先祖様たちからのプレゼントだったのかもしれません。
ご先祖様たちに関連して、手に入るいろいろな経験が、私たちにとっては財宝みたいなものなのです。

その時撮った写真は、お礼のお手紙と一緒に、京都の牧先生のところにお送りしました。
何年も前に取材で歩かれている場所だと思うので、懐かしく思ってくださったら幸いです。
by songsforthejetset | 2007-05-23 06:29 | つれづれ
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