どうして人生は、その時その時に必要なものを、絶妙のタイミングで投げかけるのだろう? 今回はほんとにまいった。 「食堂かたつむり」。 王様のブランチで紹介されているのを見て、へーと思ったけど、買いたいと思うほどではなかった。 翌日pieniに行ったら、そこに「食堂かたつむり」があった。 さっき他の人から返ってきたばっかり、持ってかえっていいですよー、と言われ、すぐ貸りて帰った。 家に帰って読み進むうち、主人公と自分があまりにもよく似ていることに気づかされた。 まるで自分のことが書いてある本を読んでいるみたい。 最後大泣き。 主人公とはいろいろなところでよく似ていて、感じている気持ちもそのまま自分が感じたことと一緒だったりする。 状況はだいぶ違うけど、心に起こったことは似ているのだと思う。 主人公は信じていた恋人に、貯金と家財道具一切を持ち逃げされ、ショックで声を失う。 (※↑こういう経験はありません(笑)。私恋愛では主人公より「おかん」寄り。) そして遠い昔に出てきた田舎の実家に帰り、食堂を始める。 その人のために心をこめてつくる料理が評判となり、主人公は自分の料理で人を幸せにすることに喜びを見出していく。 (と書いたらよくあるほのぼのストーリーなのですが、そうでは終わらないところにベストセラーの理由があるのだと思います。) 主人公にとって、声を失うほどショックだったのは、恋人から裏切られたということ。 私にとってのショックは、3つ下の弟を亡くしたことで、失ってしまったのは「悲しいことに反応する心」だったりする。 私が小学校5年のときに、弟が重い病気になって、最初の入院をした。 一度の入院は約半年で、それが大体1年おきくらいにあった。 病院には母親が付き添っていたから、その間の家事は私と父親でしていた。 でもそれを不満に思ったりしたことは一度もなかった。 人と自分を比べて大変だと思うこともなかったし、そういうものだと思っていた。 大変なことがおこったから、しっかりしなくちゃと思っていた。 ずっとその頃から、自分だけは「大丈夫」でいなくっちゃと思っていた。 つらそうにしたり、傷ついたり、沈んでいたりしたらいけないのだって思って、いつも平気にしていた。 こんな状況の中で、自分までつらそうな素振りをみせたらいけないって、子供ながら無意識にそうしていた気がする。 だからかもしれないけど、いまだに私は、映画とかの悲しい場面で周り中が泣いていても、そういう場面では、ピタッと心が反応しなくなってしまう。 それは、いままでいきいきと輝いていた自然が、急にコンクリートで固められてしまったみたいな感じ。 自分は心が冷たいのかなあって思ったこともあるけど、どんなにがんばってもそういう場面で泣けなくなってしまった。 その反対に、嬉しいことや、感動することではすぐに泣ける。 悲しいことに反応しない分、嬉しいことに倍反応してるみたい。 家族がずっと大変だったから、なにか困ったことがあっても、他の人に相談したりすることはなかった。 友達にも、深刻すぎて、話そうとも思わなかった。 自分は「大丈夫で普通」でいないといけないと思っていたし、しっかりしなくちゃと思っていた。 甘えられる人もいなかったし、甘えたりしたら迷惑をかけると思っていた。 なにか悪いことがあったら自分のせいで、自分はがまんしなくちゃと思っていた。 私が大学受験の頃に入院したのが、弟の最後の入院になった。 亡くなったのはその年の9月だったけど、後から思い出したら、自分の記憶がポッカリ抜けているところがあったりした。 もしかしたら、あまりにつらい経験は、勝手に脳が記憶を消してしまうのだろうか?って思ったこともある。 自分もあまり思い出さないようにしているからかもしれない。 弟が病気になってからは、うちに人が集まるときにはみんな泣いていた。 10代の頃、私の隣には常に「死」があって、それが普通で、そういうものだと思っていた。 弟が亡くなってから何年か後、今の家を建てた時にお祝いをして、その時にはじめて、うちに集まった人がみんな笑顔でいた。 集まった人が楽しそうにしているのが、こんなに幸せなことなんだって、その時はじめて知った。 その時に感じた、何も心配せずに楽しんでいいということが、こんなに幸せなのだっていう気持ちは、一生忘れないと思う。 だから今でも、集まった人たちの笑顔を見るのが、私はとっても好き。 弟が病気になってから、自分が困ったことを誰かに相談したり、甘えたりという習慣がなかった。 自分は大丈夫でいなくちゃと思っていた。 そのままで大きくなってしまったから、いつも外側の自分で外の世界と接して、ほんとの自分を出すことってなかった気がする。 ほんとの自分をすこしづつ出せるようになって、まだ2年くらい。 そういった中で、「食堂かたつむり」の主人公のように、"自分が持っているもので人を幸せにできる"ことが自分にもあるのだって知った。 いちばん大きかったのは、アクセサリーつくり。 主人公の、 「私にとって、料理とは祈りそのものだ。」 という言葉は、私が作品をつくるときの気持ちとそのまま同じ。 つくるときには、必ず、これをつける人が幸せでありますように、と思ってつくる。 主人公が料理の前に、お客さんがどんな料理を望んでいるか面接をして、心をこめてその人の幸せを願ってつくるように、私もオーダーをいただいた際には、その人の願いや希望、自分がこうなりたいといった夢を聞いて、その願いが叶ってさらにもっと幸せになりますように、と思ってつくる。 主人公の料理でいろいろな人が幸せになったように、私も買ってくださった方から、いいことがあったとか、これをつけていると元気になるとか、ここ一番というときにつけるとか、お伺いすることがある。 そんな時は本当に嬉しい。 自分が持っているもので、人を幸せにして、きっとそのことで自分も癒されているのだと思う。 それも主人公と同じ。 主人公が食材の声を聞いて、そこからお料理の着想を得るように、私も素材からデザインを教えてもらうことがほとんど。 手に取ったら、その石が、どうつかったらいいか教えてくれる。 主人公がクリスマスにカップルにケータリングした帰り道の気持ちはそのまま、初の個展をしたときの自分の気持ちみたい。 とにかく他にも主人公とは似ているところがいっぱいあって、これからの自分がどう生きていったらいいのか、今忘れていることはなんなのか、しなくちゃいけないことが何か、とっても明快に目の前に差し出されたような、そんなお話だった。 昨日は読み終わってしばらくボーっとなってしまった。 ほんとに人生や運命は、常に私たちに疑問を投げかけるけれど、その時その時に必要な答えは必ず用意してくれているような気がする。 それは宝物探しのように、生活のどこかに隠れている。 ふとした直感や、大切な人の言葉、繰り返し現れるなにか、なんだか気になってしょうがないものの中には、自分への答えがひそんでいる。 そして、"すべての山に登る"ことも大切なのだと思う。 運命はたしかにある。 そしてそれは、自分しだいで変えられる。 なにより大切なのは、じぶんで歩き出すこと。 ずうっと暗い倉庫の中で、たくさんの荷物に囲まれて、膝を抱えてじっと座っていた。 天井に窓がひとつ。 でもそこから出られるとも、出たいとも思わなかった。 ある日、そうっと窓を押してみたら、窓は開いた。 鍵は最初からかかっていなかった。 出られなくしていたのは自分の心。 窓を押し上げて、外に出てみると、明るい草原と森があった。 歩いていくと、きれいな花が咲いて、美しい世界が広がっている。 楽しくて、楽しくて、遊んでいて、 ふと上を見た。 そこには水面があった。 はるか遠くに、ぼやけて光る太陽がみえる。 ここはまだ海の底。 向こうにもっと明るいところがある。 行かなくちゃ。 でもふと気づくと、まだ私はたくさんの荷物を持っている。 手放さなくっちゃ浮かんでいけない。 重たい重たい。 まだ水面は遠い。 今まで宝物だったもの。 それがないなんて考えられなかったもの。 無くすことを想像することすら怖かったもの。 そういったものを、私は最近、どんどん捨てはじめています。 もういらない。 去年の春は自分の心がリセットされた。 そしてこの春はなんだか環境をリセットしているみたい。 いいのか悪いのかよくわからない。 でも、じぶんの心の声に忠実でいようと思います。 そんなときに出会ったのがこの小説。 やっぱり必要なものとは出会うようになっているのだろうって思いました。 人生に必要なものはそう多くない。 でも私には、まだまだ足りないものがいっぱい。 足りないものが集まって、答えが見つかってはじめて、悲しい場面で泣けるようになるのかも。 とりあえずゆっくり前に、かたつむりみたいに進んでいこうと思っている今年の春です。
by songsforthejetset
| 2008-04-22 00:38
| 本
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